【西湖】
■所在地:山梨県南都留郡富士河口湖町 ■取材日:2004年4月12日 ■公開日:2008年10月某日
■ここで紹介する「西湖」も、書籍の執筆が主な目的として訪れたものだ。
現地での良い写真を撮影するべく、湖の周りを通る道を、何度も何度も車で走った記憶がある。
なお、当日の天候は、写真を見れば一目瞭然の快晴だ。
台風の被害のことなど全くイメージ出来ない行楽日和での取材である。
■西湖に向かうにあたり、河口湖の北側の道を進むルートを選択した。
国道139号線から向かうルートもあったのだが、その前に「御坂峠」に訪れていたことを考えれば、このルートの選択が妥当だろう。また、湖畔に沿った道でもあるため、景色的にも悪くない。
この道を選択した場合、河口湖から離れ西湖に差し掛かる手前で、トンネルを通過することになる。「文化洞トンネル」という名とトンネルなのだが、こちらでも少々の噂話が聞かれる。内容としては「坑口付近に霊が立っていた」といったものや、「屋根に霊が乗っかる」といった定番といえば定番の情報である。
なお、現在使われている文化洞トンネルは新しいものであり、そのトンネルの隣に、かつて使われていた「文化洞隧道」がある。こちらは現在、その両坑口がコンクリートで固められており、内部に新入することは、削岩機でも使わない限り不可能だ。
1993年に、新トンネルが完成し、現役の役目を終えた文化洞隧道なのだが、これがいつ塞がれたのかは不明だ。また、塞がれてしまった経緯も分からない。恐らく、崩落などの危険性のためだとは思うのだが、こういった「内部が見れない」というジレンマは、様々な憶測を呼ぶ引き金にもなりそうな気もする。
■河口湖から西湖に向かう道中にあるトンネル。このトンネルを過ぎれば、西湖は目の前だ。
因みにこのトンネルの名前は「文化洞トンネル」というのだが、トンネルの右手に封鎖された旧トンネルの姿も見られる。2000年に出版された、
「つのだじろうの恐怖心霊ゾーン:フランス書院」
という書籍で取り上げられているトンネルでもある。
■文化洞トンネルを越えれば、西湖までの距離は訳もない。車を500mも走らせれば、その姿を左手に確認することができるだろう。
車を停めて、早速撮影に移りたいところなのだが、この広い西湖の全体像を把握するため、まずは車で一周してみることにした。わき見運転は、あまりお勧めできる行為ではないのだが、交通量も差ほど多くもなかったので、湖の雰囲気を味わいながら、ゆっくりと車を走らせた。
その際に感じたことといえば、まずは天然湖と人造湖の違いであろうか。
よく見るダム湖などは、山肌が直接湖面と接しており、また数多くのダム湖を見てきたので、いつの間にか、それが当たり前に感じてしまっていたようだ。
しかし、天然湖である西湖を眺めると、例えば地面から水面へと変わるその境目が、実になだらかである。また、砂浜が存在しているのも違いの1つであろう。膨大な時間とともに形成されていった証拠でもあり、そこに歴史を感じてしまう。
また、砂浜とは別に、無骨な溶岩が流れ込んだ様を、あからさまに見せる場所も存在している。過去の富士山の噴火により流れてきた溶岩によるものなのだが、その溶岩の上に木々が生い立ったものが、今や自殺の名所として、またそれに付随してか、心霊スポットとしても有名な「青木ヶ原樹海」である。
この辺に関しては、後に作成するであろう「青木ヶ原樹海」のレポートに記載することにして、ここではもう少し西湖について触れたいと思う。
ここ西湖では、かつて台風による水害を幾度か経験している。
なかでも、昭和41年9月の台風26号での被害は特に酷く、西湖周辺では二つの集落が山津波にのまれ、100棟以上の家屋等が全滅した。死者・行方不明者も相当数にのぼり、そのなかの13人遺体は、未だ発見されぬまま西湖周辺に眠っているとのことだ。
亡くなられた本人にとって、自分の遺体が発見されぬままというのは非常に辛いことなのだろう。そういった霊が、時に我々の前に出現し悲しい表情を浮かべながら何かを訴えかけるのだろうか、ここではそんな寂しげな雰囲気をまとった霊がの姿が目撃されるそうだ。
私が訪れた時は、神流湖の取材時と同様、好天に恵まれ、西湖は日の光を浴び輝き、山々は春を感じ芽吹き始め、その向こうに聳え立つ富士山の姿が非常に美しかった。ついつい目の前に広がる自然の雄大さに心奪われるのだが、その横に静かに置かれた慰霊碑を見つけ、その後改めて目の前の西湖を見たとき、何とも神妙な気持ちにさせたれた。
「また今日も悲しい表情でこの湖の湖面を彷徨うのかな…」
なんて独り言をついつい呟いてしまったのを思い出す。
巡霊者:心霊スポット取材記:山梨県【西湖】現地写真
■いよいよ西湖に到着だ。といより、西湖を横に見ながら車を走らせ、西端に到着ののち、撮影を開始し始めたのだった。
思ったとおり、過去に噴火した富士山の溶岩が、西湖の畔まで迫り出している様が伺える。
なお、奥に微かに見えるのは富士山である。
■溶岩の上に生い茂った木々が分かるだろうか。写真では非常に見づらい富士山なのだが、当日はその姿がバッチリと見えており、実に美しかったのを覚えている。
また、余談ではあるが、私が高校の時に富士山の頂上まで登った経験があるので、改めて眺めながら「あそこまで登ったんだ…」と我ながら感心するあかりであった。
もちろん現在において再挑戦する気力は皆無だ。
■西湖の畔には、随所でこのような石碑が見られる…らしいのだが、私が確認したのは、この1つだけであった。なお、この石碑は昭和41(1966年)年9月25日、台風26号による災害の際に犠牲になった方々へ向けたものだ。
未だ見つからず、この西湖に眠る13人の遺体を偲び、作られた歌「ああ西湖よ」の経緯が記されている。
■迫り出した溶岩の様子を、湖の南側から撮影したもの。この溶岩と、その上に生い茂る木々は、青木ヶ原樹海まで続いている。
この美しく広がる湖の中に、台風の犠牲者であり、未だ発見されていない13人が実は眠っていると思うと、何とも切なく思えてくる。
■因みに、溶岩の上に生い茂るその木々の内部は、おおよそこの様な状況である。即ち、樹海も基本的にはこの様なものだ。
どこを見ても似たような景色であり、また起伏も激しい。まっすぐに歩いているつもりでも曲がってしまうのも頷ける。
その青木ヶ原樹海も取材してきたので、追々紹介できる予定だ。
■基本的には、大自然に囲まれた、実に雰囲気の良い観光地であるのが、この西湖の顔だろう。
実際に周囲を取材しながら感じたものは、何よりその心地よさであった。また季節が4月半ばであったため、時に吹く風が冷たくもあったのだが、当時は天候にも恵まれ、忙しない都会での暮らしから解放されて、実に良い気分であった。
しかし、それだけの良好な景観を持つからこそ、ついつい過去に起きた事故などは消え去りがちだ。
だからといって、その悲しい歴史は、やはり忘れてはいけないと私は思う。また、それを忘れないように、西湖の畔には、慰霊碑なども多く存在しているのだと思う。
その多くの石碑のなかに、「ああ西湖よ」という歌が刻まれた歌碑がある。そこには、台風の被害により亡くなられた方々への想いが、その歌碑に切なく記されている。
生活のそばに存在した、とても美しく、地元の人々の心の拠り所でもあった西湖。そこに消えていった犠牲者への気持ちと西湖への複雑な感情を詠った、非常に心に響くものである。
これを読むと、犠牲者の遺族の悲しみを知るとともに、我々も犠牲者へのご冥福の心をもって、時に接せねばという想いに包まれる。
締めくくりの言葉に変えて、その歌碑に刻まれた詩を最後に紹介する。
厚 生 大 臣 内 田 常 雄 書 |
湖 底 に 深 く 兄 も 姉 も 今 は 亡 き |
西 湖 西 湖 よ 尊 い 生 命 |
あ あ 西 湖 よ 悲 し い 湖 |
哀 れ 秋 の 日 は げ し い 嵐 に |
よ ろ こ び を 包 ん だ 山 々 |
二 い つ の 日 も 兄 と い つ の 日 も 姉 と |
涙 に 映 え て 父 も 母 も 今 は 亡 き |
西 湖 西 湖 よ 夕 焼 の 空 |
あ あ 西 湖 よ 悲 し い 湖 |
哀 れ 秋 の 日 平 和 は 破 れ |
暖 か く な が め た み ず う み |
一 い つ の 日 も 父 と い つ の 日 も 母 と |
作 曲 館 岡 一 郎 |
作 詩 広 里 多 美 |
あ あ 西 湖 よ |