【白旗塚】
■所在地:埼玉県所沢市北野 ■取材日:2005年5月5日 ■公開日:2016年1月某日
■ここに紹介する「白旗塚」を知ったのは平成17年のこと。当時の恒例行事であった「怨念地図」の制作協力の際に、先方より提示された心霊スポットのリストに挙げられていたのを目にしたのが初めてであった。それ以前より、所沢辺りの心霊スポットには何気に積極的に訪れていただけに、
「もっと早く知っていれば併せて出向いたのに!」
なんてプチッと悔しんだ記憶がある。といって、あくまで“プチッと”悔しかっただけであり、それ以前に
「では早々に向かわねば!」
と思い、そそくさとゴールデンウィークも終盤の5月5日、子どもの日の早朝に現地を訪れたのであった。
因みにだが、早朝を選んだのは、GWの条件下に、人に会わずに現地の分かり易い写真を得る為である。日の出の時間を逃せば、間違いなく誰かしらと遭遇してしまいそうな場所であり、取材時に無闇矢鱈に人と接したくない私としては、まさに
「その時間しかないだろ」
といった想いで早起きして現地入りしたのが、今や懐かしい思い出である。
「誰かしらに遭遇しそう」と書いたが、要するに周囲には民家や学校などが近くに存在し、そんな中にあるのが、この白旗塚なのである。良心的な接し方が求められる心霊スポットであるのを、予め記載させて頂く。
■そんな経緯で訪れた白旗塚は「小手指ヶ原古戦場」の一部にある。この辺り一帯が古戦場で、その中で「源氏の白旗を立てた所」であり、それがそのまま名称となっている。それは現地の解説板にも記載されているので、それを以下に記載させて頂く。
小手指ヶ原古戦場
太平記によれば元弘3年(1333)5月8日、新田義貞は鎌倉の北条高時を攻めるため、群馬県新田郡新田町生品明神で旗揚げをし、10日には入間川の北岸に到着した。一方鎌倉の北条方では新田方を迎え撃つため桜田貞国を将として鎌倉街道を北進し、5月11日両軍は小手指ヶ原で激しく戦った。しかし勝敗は決せず新田方は入間川に、北条方は久米川に退いた。翌12日新田方は先制攻撃をかけて久米川の陣を攻め立てたので北条方は敗れて府中の分倍河原に退いた。そして15日新田方が府中に押し寄せたところ、北条方には援軍が来ていたので新田勢は敗れて狭山堀兼まで引き陣を立て直した。そして16日新田方は再び分倍河原の合戦で勝利を得、18日には藤沢市村岡で戦い、22日ついに新田方は鎌倉を攻め落とした。
小手指ヶ原古戦場にある白旗塚はそのとき義貞が源氏の白旗を立てた所といい、また誓詞ヶ橋は義貞が所属した将兵に忠義を誓わせた所と伝えられている。
なお所沢には椿峰・兜掛の松・誓の桜・義貞の祈願文・勢揃橋などこの合戦に関係した説話が残っている。
平成8年3月 所沢教育委員会
以上が現地に設置されていた、当時の解説板の内容である。当時と書いたのは、実は現地を取材したのは、この記事を制作する10年以上前であり、実は現在では新しい解説板に差し替えられていたりする。新たなものも、そこそこ似た様なものなのだが、大きな違いとして文面が丁寧語というか…要するに「です・ます調」になっている事だろうか。あとは文末の白旗塚の説明として、こう記されていることだろか。
なお、背後にある小高い塚は白旗塚と呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞が、ここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。
この一文を見ると、
「なるほど白旗は源氏の旗印なんだな」
というのが誰にでも分かる。
ここ白旗塚は、間違っても「降参してしまった場所」でないのが、実に分かり易くなっているのである。
■小手指ヶ原古戦場の碑と共に設置されていた解説板。
この取材は2005年に行ったものであり、現在では別の解説板が世知されている様だ。
なお、取材当時の解説板の内容は、上に掲示させて頂いた通りだ。
■そんな白旗塚における霊的情報は、やはり合戦の地“ならでは”というか何というか…。例を挙げれば
・鎧の身にまとった武士の霊が、白旗塚の周りを夜な夜な彷徨う。
といったものであろうか。また、強力させて頂いた「関東怨念地図平成17年度版」においては
・心霊写真が結構撮れる
といった事が投稿者の証言として紹介されている。心霊写真とは何とも恐ろしげなのだが、その時の取材において、そんなエグい写真は残念ながら撮影されなかったのは、隠すことなく明記しておこう。
話は解説板に戻るが、この解説を読めば一目瞭然なのだが、ここは鎌倉幕府滅亡に因んだ場所である。1333年に鎌倉の東勝寺で北条高時らが自害し鎌倉幕府は終焉を迎えたのだが、その自害した場所が「腹切りやぐら」で、そこが有名な心霊スポットであるのは、心霊好きな人々には説明するまでもなく有名なところだ。それに因んだ心霊スポットが、遠く離れた所沢にも存在している事に、その戦の進む“流れ”みたいなものを感じてしまうのである。
また、路地裏として取材はしていないが、この合戦の流れに「分倍河原古戦場」なる合戦の地があるのだが、やはりここも霊的な噂が聞かれたりする。機会を見て訪れたいとは常々思っているのだが、近年は地方への取材を主としていて、なかなか出向けないのが歯がゆい部分である…。
さて、実際に訪れた白旗塚の雰囲気なのだが、以下に掲示した写真を見る限り、早朝の清々しさが強調された、何とも神々しい雰囲気となってしまっているのが、これまた歯痒い部分である。実際は、もう少し不思議な雰囲気を感じたのだが、改めて写真を見直すと…やはり神々しさが際立つ写真となっているのは否めない部分である。
それでも、その「やたら輝かしい現地」に、逆に怖さが見え隠れ…というか恐怖を覆い隠しているかの様に感じてしまうのは、こんなサイトを10年以上運営している変人の、得意な“勘違い”でしかないのだろうか…。ともかく、人々がゴールデンウィークで幸せな笑顔を見せているなか、ここにはそれとは全く違った空気が流れていたのだけは、紛れもない事実である。
取材当初はそんな微妙な心境であったのだが、それが塚へと昇る入口脇に設置された、小さな石碑の文面を何気なく読んだ時に、ほのかに感じていた不思議さが恐怖心に変わってしまった。読み辛いのではあるが、何やら「悪魔〜」だの「死するやも〜」書いている様で、少々危険な雰囲気が、それこそ「ぷんぷん」と臭うのである。
後にネットにて調べて、その文の内容が分かったのだが、それは以下の様になる。
古武将の御魂祭れりこの塚を
護り通せと先祖より受
此の塚を壊せし者は忽ちに
霊魔を受けて死するやもあり
武蔵野の小手指ヶ原古戦場
月の光は変らざりけ里
これは要するに、現地を壊すなという警告なのだろうか?いや、間違いなくそうなのだろう…。この白旗塚においての破壊行為は、他にも増して厳禁であるのを、声を大にして伝えたいのである。最も破壊行為は、ここに限らず全ての現場において厳禁であるのは、もはや言うまでもない事であるのだが。
煌びやかな朝日に包まれた白旗塚に、それに掻き消されつつも“何か”を誇示するその“何か”を、その石碑が教えてくれた様な気がしたのであった…。
巡霊者:心霊スポット取材記:埼玉県【白旗塚】現地写真
■小手指ヶ原古戦場の碑。
白旗塚に訪れる際の目印といって良いだろう。
左に見えるのが、上で紹介した解説板だ。
■左の写真の位置から、西へ約30m程進むと、この様な小高い丘に行き着く。そこが「白旗塚」である。
■塚の登り口の脇には、本文で紹介した、あの石碑が設置されている。
「此の塚を壊せし者は忽ちに霊魔を受けて死するやもあり」
の文面に恐怖を覚える…。
■階段を上へ進めば、白旗塚が見えてくる。
朝日を背後に浮かび上がる姿が、神々しくも見えるし、それが逆に怖さを感じてしまう様な、何とも複雑な印象であった。
■塚の他、浅間神社の祠もある。
要するに、ここは富士信仰の場にもなっているのだろう。
小高い丘を富士山に見立て、それを信仰対象にするのは、小机城址の取材時にも見受けられた。
■先にも書いた通り、この取材記は平成17年と古いものとなっている。現在の周囲は様々な変化が見られるのかもしれないが、塚自体はそう変化はないと思われる。きっと、あの石碑に刻まれた文面が強く影響し、また守られて今現在も同じ姿を留めているのだろう。
そんな変わらぬ姿を眺めに、時間を設けて改めて訪れてみても悪くないのではと、これを書きながら思えてくるのであった。そんな機会に恵まれたら、何かしらのカタチで紹介してみたい。勿論、塚への配慮はもとより、近隣にご迷惑がかからぬ様、最善の注意を払い、しかるべき時間帯に敬意をもって接する事を、ここに明言しておこう。
もし訪れようと思う人が他にもいるのなら、こうした気持ちを持って、是非訪れて頂きたいと切に願うばかりなのである…。